介護経営コラム

Column

月収160万円が示す、介護業界の静かな地殻変動

― IT人材の高額報酬から読み解く、介護経営の分岐点 ―

髙山 善文 氏
更新日:2026年1月29日
月収160万円が示す、介護業界の静かな地殻変動

はじめに:求人票が語る「別の世界」

「介護×IT×求人」 ふと、そんなキーワードで検索をかけてみたとき、画面に並ぶ数字に目を疑う経営者は少なくありません。
VPoE(技術部門統括)候補で月収160万円、フルスタックエンジニアで145万円、データアーキテクトで128万円……。年収ではなく、月収の話です。 現場の施設長やエリアマネージャーの報酬相場を知る私たちからすれば、それはまるで別世界の出来事のように映ります。「なぁんだ、介護職の話ではなく、ベンダー側のIT人材募集ではないか」と、ブラウザを閉じたくなる気持ちもわかります。

しかし、ここで思考を止めてはいけません。 これらの求人が示しているのは、単なる職種の違いや、ITバブルの余波ではありません。介護業界そのものが、これまでとは全く異なるフェーズ――いわば「労働集約産業」から「構造設計産業」への転換期に入りつつあることを示す、極めて重要なシグナルなのです。

本稿では、この「月収160万円」という数字の裏にある経済合理性を紐解きながら、私たち介護経営者が直面している静かなる地殻変動と、これから取るべき選択肢について考察します。

1.報酬原資は、もはや「介護報酬」ではない

まず押さえるべき前提は、こうした高額報酬の原資が、私たちが日々請求している「介護報酬」ではないという点です。

従来の介護ビジネスは、典型的な労働集約型モデルです。売上を上げるためには、職員を採用し、施設を建て、定員を埋める必要があります。売上の増加とコスト(人件費・設備費)の増加は常に比例関係にあり、利益率は一定の範囲に収束します。この構造下では、一人の人間に月収160万円を支払うことは、経営数値上、極めて困難です。

一方、彼らIT人材が関与しているのは、介護サービスの直接提供ではありません。「全国の事業所」を対象とした、SaaS(Software as a Service)やプラットフォームの構築です。 彼らが作る「仕組み」は、一度開発してしまえば、利用する事業所が10ヶ所から1,000ヶ所に増えても、提供コスト(限界費用)はほとんど増えません。顧客が増えれば増えるほど、利益率が飛躍的に向上する「スケーラビリティ(拡張性)」を持っています。

つまり、月収160万円という報酬は、将来的に生み出される莫大な利益を見越した「先行投資」なのです。外部の資本は今、介護現場の「労働」ではなく、介護を効率化する「仕組み」に対して投じられています。 この資金の流れの変化こそが、業界構造の変化を如実に物語っています。

2.介護は「遅れた業界」ではなく、「未設計の巨大市場」である

では、なぜ今、IT業界や投資家たちは介護領域に熱視線を送るのでしょうか。 それは、介護業界が「巨大でありながら、未設計である」からです。

事業所数、従事者数、そして右肩上がりの社会保障費。どれをとっても日本有数の巨大市場です。しかしその内実は、業務が極度に属人化され、データは分断されています。申し送りは手書きのノート、実績報告はFAX、ケアの記録は散逸したExcelファイル……。 ITエンジニアの視点から見れば、これは単に「遅れている業界」ではありません。「宝の山」なのです。

これまでベテラン職員の「勘と経験」に依存していた暗黙知を、データとして可視化し、アルゴリズムで最適化する。もしそれが実現できれば、業務効率は何倍にも跳ね上がり、ケアの質も標準化されます。 今求められているのは、単にコードを書くプログラマーではありません。複雑に絡み合った現場の業務フローを紐解き、制度の制約(ローカルルールや人員配置基準)を踏まえたうえで、持続可能なシステムとして再設計できる「アーキテクト(設計者)」です。

難易度が高いからこそ、そこに挑める人材の価値は高騰します。彼らは、制度と慣習に覆われた介護現場に、デジタルという新たなインフラを敷設しようとしています。

3.介護事業者に突きつけられている「3つの選択」

この構造変化は、ITベンダーだけの話ではありません。 データ化とAI化が進む中で、私たち介護事業者自身の立ち位置も、静かに、しかし残酷なほど明確に分化しつつあります。大きく分けると、次の三つの道です。

① 使われる側(ユーザー)

ベンダーが提供する既存のシステムを、月額料金を払って利用するだけの立場です。 短期的には業務改善につながり、安定もするでしょう。しかし、システムの仕様変更や介護保険改正をはじめとした価格改定があれば従うしかなく、経営の主導権(グリップ)は弱くなります。また、自社の業務データはベンダーに吸い上げられ、彼らの資産となります。?

② 共創する側(パートナー)

現場データとオペレーションを持つ「当事者」として、システムの開発や改善に関与する立場です。 実証実験のフィールドを提供したり、開発段階から要件定義に参加したりすることで、自社の強みや独自のケアメソッドがシステムに反映されます。これは他法人との差別化になり、採用ブランドの向上にも寄与します。

③ 構造を作る側(プロバイダー)

これが最も進んだ形です。自社で確立した業務モデルや教育ノウハウを標準化し、システムやコンサルティングパッケージとして外部へ提供する立場です。 ここまで来れば、介護報酬という「公定価格」の天井を破り、独自の収益源を持つことができます。

重要なのは、「自覚的に選ぶこと」です。 何も選ばずに漫然と経営を続けていれば、自動的に「①使われる側」に固定されます。そして、自社の貴重な現場データは匿名化され、知らぬ間に他社(ベンダー)の競争力の源泉となっていくのです。

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4.経営者に求められる「翻訳者」としての役割

「そうは言っても、自分はITの専門家ではない」 そう尻込みする経営者の方もいるかもしれません。しかし、誤解してはいけません。この時代に介護経営者に求められているのは、プログラミングスキルではありません。

求められているのは、現場・制度・ITをつなぐ「翻訳者」としての役割です。

現場からは「人が足りない」「忙しい」という悲鳴が上がります。それをそのまま「じゃあ人を増やそう」と解決するのがこれまでの経営でした。これからは、その悲鳴を因数分解し、「どの業務がボトルネックなのか」「どのデータを連携させれば時間が浮くのか」という構造的な課題に翻訳する必要があります。 逆に、エンジニアが提案する最新技術を、「それは現場の利用者の肌感覚に合わない」「その操作は夜勤者の負担になる」と、現場のリアリティに即して翻訳し返す役割も必要です。

月収160万円クラスのIT人材は、極めて高性能な道具を生み出す技術者です。しかし、介護の価値観や現場特有の繊細な判断までは共有していません。彼らが描く設計図の中で、自社が単なる利用者にとどまるのか、それとも価値を共につくる存在になるのか。その選択を下すのが、現場と技術を往復できる経営者なのです。

まとめ:筆者コメント

現場、経営、そして第三者評価者。30年以上にわたり異なる立場を行き来する中で、私が痛感してきた事実があります。 それは、業界の地殻変動は常に静かに始まり、気づいた時には参入障壁が越えられないほど高くなっている、ということです。

「月収160万円」という衝撃的な数字も、単なる一時的なブームではありません。 介護ビジネスのルールが根底から変わろうとしている、その決定的なサインです。
この変化を前に、私たちは何をすべきでしょうか。 ただ立ち尽くすのか、それとも自ら変化の先頭に立つのか。

重要なのは、システムを入れることではありません。 「限られた資源で、いかに質を守り抜くか」という問いに対し、テクノロジーを梃子(てこ)にして答えを導き出すこと。すなわち、未来から逆算して組織を作り変える「構想力」です。
変化の波はすでに来ています。 その波を乗りこなすための準備を、今すぐここから始めていきましょう。

ライター紹介
髙山善文
髙山 善文(たかやま よしふみ)氏
介護・福祉経営コンサルタント/ティー・オー・エス株式会社 代表取締役

現場経験32年。福祉用具販売や老人ホーム運営、ケアマネジャー等の現場実務を経て、大手介護事業者でのマネジメントを経験。現場の葛藤と制度の乖離を肌で感じた経験から、2014年に独立。
現在は「現場感覚を持った経営支援」を強みに、事業戦略策定、収益改善、ICT導入、監査対応など、多岐にわたる実行支援型コンサルティングを展開。単なる手法の提示に留まらず、「経営の目的」を言語化し、収益化と現場の質を両立させるアプローチに定評がある。大正大学非常勤講師。

【著書】
• 『図解即戦力 介護ビジネス業界のしくみと仕事』(技術評論社)
• 『介護の現場と業界のしくみ』(ナツメ社)ほか

【問い合わせ先】
https://www.jtos.co.jp/


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