最近、富士山の閉山期間中に発生した山岳遭難について、防災ヘリによる救助費用を遭難者本人に負担してもらうかどうかを検討する、というニュースを目にしました。閉山を知りながら登山し、十分な装備や計画もないまま遭難した場合まで、すべて公費でまかなうことが妥当なのか、という問題です。
このニュースを見て、以前から議論されている「救急車を有料化すべきか」という問題と、根っこの部分は同じではないかと感じました。そしてこの話は、山岳救助や救急医療だけにとどまりません。高齢者医療、生活保護の医療扶助、さらには介護保険にもつながっているのではないか。共通しているのは、「必要なサービスへのアクセスを保障しながら、限られた社会資源をどう適正に使うか」という問いだと考えます。今回のコラムではそのような視点から社会保障の未来について考えてみました。
【目次】
「無料であること」が社会を支えてきた
日本では、救急車を原則無料で利用できます。突然胸が痛くなった、意識を失った、交通事故に遭った——そのようなとき、財布の中身を心配せず119番できる仕組みは、日本社会の大きな強みです。生活保護の医療扶助も同様で、経済的な理由によって必要な医療を受けられない人をつくらないことは、社会保障の根幹をなしています。
一方で、本人の負担が極めて小さい、あるいは全くない制度には、別の課題もあります。利用者に悪意がなくても、サービスの使い方を自然に抑制する仕組みが働きにくくなるからです。経済学では、本人の負担が小さいことで必要以上にサービスを利用したり、リスクへの警戒が弱くなったりする現象を「モラルハザード」と呼びます。
これは、利用者個人を責める話ではありません。大切なのは、制度の仕組みそのものが人の行動に影響を与えるという視点です。
高齢者医療には「全体を見る人」が不足している
介護経営者の皆さんが向き合っている高齢者の多くは、複数の医療機関に通っています。内科、整形外科、眼科、泌尿器科、皮膚科、精神科……年齢を重ねれば複数の疾患を抱えるのは自然なことです。問題は、複数の医療機関を受診すること自体ではなく、それぞれの医療機関が個別に診療を行い、処方薬全体や本人の生活状況を一元的に見る人がいないことにあるのではないでしょうか。
たとえば、内科から5種類、整形外科から3種類、精神科から4種類の薬が処方されれば、本人は十数種類の薬を服用することになります。一つひとつの処方には理由があります。しかし高齢者の場合、薬の数が増えることでふらつき、眠気、食欲低下、転倒などにつながることがあります。これが「ポリファーマシー」と呼ばれる問題です。単に薬の数が多いという意味ではなく、多剤服用によって有害事象や服薬管理上の問題が生じている状態を指します。
医療は病気を治すことを中心に考えますが、介護は「この人がどう暮らしたいか」を中心に考えます。90歳を超えた高齢者にとって、すべての検査値を理想的な範囲に収めることと、ふらつかず自分でトイレに行けることと、どちらが大切なのか。その答えは、本人によって違うはずです。だからこそ医療と介護は、病名や検査値だけでなく「生活」そのものを共有していく必要があるのだと思います。
生活保護の医療扶助は、制度設計そのものが問われている
生活保護を受給している方の医療についても、同じ視点が必要だと感じています。必要な医療へのアクセスを保障することは当然です。一方で、窓口負担のない制度では、複数の医療機関を受診したり薬剤が重複したりしても、費用の面から利用を調整する仕組みが働きにくいのも事実です。ここで「生活保護を受けている人が医療を使い過ぎている」と個人の責任にしてしまうのは適切ではありません。問われるべきは、その人の医療全体を誰がコーディネートしているのか、ということです。かかりつけ医が受診先を整理する。薬剤師が処方薬を一元的に確認する。訪問看護師が薬の影響を生活の中で確認する。ケアマネジャーが医療と介護をつなぐ。こうした仕組みが実際に機能しているかどうかが、本質的な課題なのだと思います。
「無料か有料か」の二択では解決しない
こうした議論をすると、「それなら救急車を有料化すればよい」「医療費の自己負担を増やせばよい」という話になりがちです。しかし救急車を一律有料化すれば、本当に心筋梗塞や脳卒中を起こしているのに「お金がかかるから」とためらう人が出るかもしれません。医療費の負担を増やせば、経済的に余裕のない高齢者が必要な受診まで控えてしまう可能性もあります。
問われているのは「無料か有料か」ではなく、本当に必要な人には十分なサービスを届け、不必要な利用や重複をどう減らすか、という制度設計の問題です。私自身、給付を抑制すべきだと考えているわけではありません。ただ、現場で見ていると「もったいないな」と感じる場面が少なくないのも事実です。そうした無駄の積み重ねが、結局は税金や社会保険料という形で私たち全員に返ってくるのだと思います。
介護保険にも同じ構造がある
介護保険でも、「限度額が残っているから使う」「制度上使えるサービスだから使う」という発想に陥ることがあります。しかし本来、介護サービスの目的は、たくさん利用してもらうことではありません。本人の自立を支え、生活の質を高めることです。
これから日本では、介護職員、看護師、医師、ケアマネジャーといった専門職がますます不足していきます。そのとき最も希少になるのは、お金以上に「人の時間」かもしれません。だからこそこれからの社会保障には、「誰にでも同じサービスを提供することが公平」という考え方だけでなく、「必要性の高い人に、より多くの社会資源を振り向けることこそが公平」という考え方が求められるのではないでしょうか。
「無料」は、本当は無料ではない
救急車も、防災ヘリも、生活保護の医療扶助も、介護保険も、利用する本人から見れば無料あるいは低額であっても、社会全体から見れば決して無料ではありません。税金や保険料で支えられ、そこには専門職の時間も投入されています。救急車が不要不急の搬送に出ていれば、本当に必要な人への到着が遅れるかもしれません。医師や看護師が重複した医療に時間を費やせば、本当に医療を必要としている人にかけられる時間はその分減ってしまいます。
介護も同じです。これから私たちが問うべきなのは、「制度上使えるかどうか」ではなく、「そのサービスは、本当にその人に必要なのか」という一点ではないでしょうか。
まとめ
富士山の山岳救助、救急車の無料化、高齢者の多科受診、多剤投与、生活保護の医療扶助、そして介護保険——一見すると別々の問題に見えます。しかしその根底には、同じ一つの問いがあります。限られた社会資源を、誰に、どのように配分するのか。
人口減少社会における介護経営とは、単に売上や稼働率を追うことだけではありません。限られた人材と財源を、本当に必要としている人にどう届けるか。これからの介護経営者には、その視点がますます求められているのではないかと思います。

髙山 善文 氏

